いつ頃のことでしたでしょうか、京都平安の都が栄えた頃のお話でございます。
時の帝には多くのお后様がいらっしゃいました。
ひと口に<お后様>と申しましても、やはりそれぞれに位というものがございまして、
正妻である中宮様、それに次ぐ女御様たち、そしてそれより低い身分の更衣様たちと様々でございました。
そんな大勢のお后様たちの中に、それほど高貴な身分ではございませんが、
帝のご寵愛を一身にお受けの方がいらっしゃいました。
プライドの高い他のお后様たちにしてみれば許しがたきこと。
帝にお仕えしてきたその日より「私こそ帝のご寵愛を得てみせる」と自負されてきたわけですから、
それは不愉快に思われ、ご寵愛をお受けの方をさげずみ妬まれるのでした。
その方と同じような、またそれよりも低い身分の更衣様たちはさらに心中穏やかではございません。
もっとも無理のないことです。
お后様達はみな、幼い頃より帝の妻となるべく大切に育てられ、
ふさわしい教養所作を身につけるべく努力してこられたのです。
「ぜひ帝の皇子を産まれますよう」と一族の期待を一身に背負い入内(宮中に入ること)されたのですから、
ご寵愛深い更衣様をさげずみになるのも仕方のないことでした。
そんなわけで、ご寵愛深き更衣様が何をするにしろ、
たとえ普段と変わらず宮仕えをしていらっしゃるだけで、
ただもう他の方々のお気に触るばかりなのでした。
そのせいでしょうか、更衣様はたいそう病気がちになられ、
心もとない様子で実家にお下がりになることが多くなりました。
そしてその頼りない様子をご覧になった帝は、ますます愛しく不憫に思われるのです。
帝のご寵愛の深さといったら、人々の非難も気にされず、後の世の語り草になろうかというほどで、
それはもうすばらしい待遇でその更衣様を愛されるのでした。
大臣や臣下も困ったことだとは思いながらも目をそむけるほどの甚だしいご寵愛ぶりです。
世間でも楊貴妃の例まで引き合いに出そうかというほどで、
「中国でも同じようなことがあり国が乱れたそうだ」などと言われ始め、
人々の苦々しい悩みの種となっておりました。
更衣様はそれはもういたたまれない思いでしたが、
けれども帝の深い深いご寵愛をありがたくお思いになり、それだけを頼りに毎日を過ごされるのでした。
この更衣様のお父上は既にお亡くなりでしたが、
更衣様お母上である北の方(正妻の妻)は古風で由緒ある家柄の方でした。
ですから何事の儀式においても、
両親ともご存命で、今のところは世間の評判も良く華やかな他のお后様たちに
さして娘が劣らぬように…と、取り計らっていらっしゃいました。
衣類や調度類、お付の方々のお給金まで決して恥をかかぬようにと、
北の方お一人で采配を振っておられたのです。
けれどもやはり頼れる後見(うしろみ:世話人、補佐人)がおりませんので、
重要な儀式や行事のあるときは頼りがいがなく不安なご様子でした。
それにしても前世からの縁がよほど深かったのでしょう。
帝とご寵愛深き更衣様のあいだに、
この世にまたとないほど清らかで美しい玉のような皇子がお生まれになりました。
当時は出産や病で宮中が汚れるとされていましたので、更衣様は里の実家にてご出産されました。
ですが帝ははやく皇子に会いたくてたまりません。
さっそく二人を呼び寄せ、皇子をご覧になるのでした。
そのご容貌の素晴らしいことといったら!
帝には右大臣の家柄の女御様より産まれた皇子が既に一人おりました。
しっかりとした後見のあるこの一の皇子は
必ずやお世継ぎとなられるだろうと人々に大切に育てられておりましたが、
このたびお産まれになった皇子のつややかな美しさにはかなうはずもありません。
帝は一の皇子に対してはもちろん格別の愛情をおかけになりましたが、
この美しい皇子こそ秘蔵子としてこの上なく大切に育てられました。
ご寵愛深きこの更衣様は、そもそも帝の身の回りの世話をあれこれとするような身分ではございません。
世の人の人望も厚く、ご自身の高い身分にふさわしい人となりの方でございました。
それなのに帝は更衣様を愛されるがあまり、むやみにお側にはべらせるのです。
そのせいで更衣様は自然と世話係のような身分の低い方のように見られるようになっておりました。
管弦や詩歌を楽しむ立派な宴の折々など、
趣(おもむき)のある行事や儀式の際には万事につけて、帝はまっさきに更衣様をお呼びになります。
ある時など、一夜をともにされたあと、朝になってもそのままお側に留め置かれることなどもありました。
御寝所におつかえした女御や更衣は、夜も深きうちに部屋に下がるのがしきたりというものですのに・・・。
けれどもこのたび皇子がお生まれになったことで帝は思慮分別をわきまえるようになられました。
帝の皇子を産んだ身として、更衣様をきちんと取り計らおうと思われたのです。
けれども一の皇子の母上である女御様は、そんな帝の様子を御覧になって、
「もしかすると帝はこのたび更衣との間に生まれた皇子を東宮(皇太子)になさるつもりかもしれない」と
疑われました。
この時代、必ず長男が皇太子になるというわけではなく
、誰を東宮とするかは帝に決定権があったのです。
一の皇子の母君であるこの女御様は誰よりも先に帝の后となられた方でした。
家柄ゆえプライドも高く、また一の皇子の他に皇女様たちもお産みでしたので、
帝のこの女御様の諫言ばかりは、けむたく心苦しくは思うものの、一応はお聞きになるのです。
ご寵愛深き更衣様はといえば、
あいかわらず恐れ多い帝の庇護だけを頼みにされていましたが、
やはりさげずみあら探しをする人は多くおりました。
ご自身は病弱で頼りなげなありさまでしたので、
「なまじご寵愛をいただいたばかりに・・・」と思い悩まれる日々をお過ごしでした。
更衣様が後宮にいただいているお住まいは桐壺と呼ばれる建物でした。
後宮はお后様方や部屋を与えられた女官(女房)の住まうところでもありました。
後宮の建物のひとつ 淑景舎(しげいさ)は
壺(中庭のこと)に桐の木が植えられていたので<桐壺>と呼ばれ、
それゆえこの更衣様は 桐壺の更衣 と呼ばれておりました。
後宮には数多くの建物がございましたが、
その中でも桐壺はふだん帝がお過ごしの清涼殿(せいりょうでん)からは最も離れた場所にございます。
ですから帝がひっきりなしに桐壺へと向かわれるたび、
他の女御、更衣のお部屋の前を何度も何度も素通りすることになります。
これでは皆様がやきもきなさるのももっとも当然のことと思えました。
そのうえ帝はあまりにも桐壺の更衣ばかりをお呼びだしになるので、
そんな折々には、更衣様がお通りになる廊下のここかしこによくない仕掛けがされていることもあり、
送り迎えをする方々の着物の裾が耐え難いほど汚れてしまうこともありました。
ある時など、帝のお側に行く為には必ず通らなければならない長廊下に
桐壺の更衣を閉じ込めてしまったのです。
どなたかが下女達に命じ、あちらとこちらの扉の両方をしめし合わせて閉じさせたのでしょう。
このようなことが多々ございました。
何かにつけ数え切れないほどの辛いことばかりが増えていくので、
桐壺の更衣はそれはそれは深く思い悩んでおられました。
そんな様子をいよいよ哀れにご覧になった帝は、
後涼殿(清涼殿の西隣にある御殿)にお部屋のある更衣様をよそに移させ、
桐壺の更衣に控えの間としてお与えになりました。
後涼殿を追い出された方のお恨みといったら、いうまでもなく慰めようもないことでございました。
桐壺の更衣よりお生まれの皇子が三歳になった年、
初めて袴をつける御袴着(おんはかまぎ)の儀式が行われました。
その様子といえば、一の皇子がされた儀式にもけっして劣らず、
帝は宮中の金銀財宝や貴重な調度品を出し尽くして立派に執り行わせました。
それゆえ「更衣ごときの皇子になぜそこまで・・・」と人々からは誹謗中傷ばかり。
けれどもこの皇子は成長するにつれ、お顔立ちもさらに美しく、優れたお気立てにお育ちになりました。
それらがあまりにもすばらしいものに思われましたので、
人々は皇子を憎むことなどとてもできないのです。
物の道理を知る人は、「このような人もこの世にお生まれになるのだなぁ・・・」と驚きあきれるばかり、
目を見張るのでした。
その年の夏、桐壺の更衣はちょっとした病気を患われ、
療養のために宮中より退出なさりたく願い出ましたが、帝はまったくお許しになりません。
ここ数年の間は更衣はふだんより病弱であったため、帝も見慣れ、
「もうすこし、宮中で療養してみなさい」とおっしゃるだけ。
ですが病状は日々重くなり、たった五、六日の間にたいそう弱々しくなられてしまいました。
結局更衣の母君が泣く泣くお訴えになり、ようやく退出させなさったのです。
母君はこんな時でも、
「あってはならない恥をこうむり、皇子様に事が及ぶことがあっては困る・・・」とお気使いされ、
皇子は宮中に残されて、人目につかないよう退出なさいました。
宮中では帝以外の者が最期を迎えることは許されておりません。
このような規則があるのでたとえ帝とて更衣をそのようにばかりお留めすることはできず、
またそのお立場ゆえお見送りすら叶わない心もとなさを言いようもなく思われます。
あらためて更衣をご覧になれば、つややかでそれは美しかった人はひどく面痩せてしまい、
帝は「なんと可哀想に・・・」と深く心を痛められますが、
もはや更衣は言葉を話しても聞こえないほどで、
すっかり衰弱しきって意識も遠のき、いよいよ最期の時がせまっている様子。
それをご覧になった帝は、更衣との今までを振り返ることも、
これからのことを考えることもできないのです。
思いつくあらん限りのことを泣く泣くおっしゃいますが、
更衣からの返事は聞こえず、まなざしもたいそうだるそうで、
いっそう弱々しく憔悴して横たわっておられます。
帝はどうしたものかと途方に暮れるばかり。
本来なら皇族や大臣にのみ乗用を許可する輦車(人の手で牽く乗り物)を
更衣のために特別に用意させますが、
結局また更衣を部屋にお戻しになり、あげく退出をお許しにならない有様です。
「先にあの世へ旅立つことも、また遅れることもしないと誓ったではないか。
まさか私を置き去りに逝くことなどできようか。」とおっしゃいますのを、女も本当に感慨深くお思いになって、
「かぎりとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり」
(最期の時を迎え、あなたとお別れしてあの世への道を行かなければならない悲しさ。
行きたいのは生きる道でございます。)
「ほんとうにこんなふうに思うのだったなら・・・」と息も絶え絶えにおっしゃいました。
まだ何かおっしゃりたいこともありそうでしたが、とても苦しく辛そうなので、
帝はたとえこのままどうなろうとも最後までお側に留め置こうかとも思われましたが、
更衣の母君は
「今日始める事になっております病気の回復を願う祈祷を、しかるべき人々が承っております。
今宵より始めますので。」と申し上げ急かされます。
帝は仕方なく思われ、ついに更衣の退出を許可なさいました。
帝は悲しみに胸がつまり、少しもまどろまれる事も無く夜を明かしかねておいでです。
更衣の里に遣わした使者が戻るほどの時間も経っていないというのに、
なおご心配事をしきりにおっしゃっておられました。
そんな折です。
使者がたいそうがっかりとして宮中に帰参し、
「夜半過ぎにお亡くなりになった・・・と更衣の里は泣き騒いでおりました」と報告がございました。
お聞きになった帝の心は乱れ迷い、
もう何もお考えになる事ができずに部屋におこもりになってしまいました。
このような状況でも、せめて忘れ形見の皇子だけはお側に留め置きたいと帝は強く欲されます。
ですが喪に伏すべき時に宮中に留まるなど前例の無いことですので、
皇子も母君の里に退出なさるよう、お付の者達は取りはからいました。
ですが幼い皇子は「一体何があったのだろう」と思っておられるのでしょう。
人々が泣きまどい、父帝さえも涙を涸れることなく流されるのを不思議そうに眺めていらっしゃいます。
ただでさえこのような父子の別れが悲しくないはずがありませんのに、
皇子のご様子がいっそう哀れで言葉もございません。
更衣の亡骸をそのままにしておくわけにはいきません。
慣習にしたがい埋葬することになりました。
更衣の母君である北の方は、「火葬の煙となって一緒に天に昇ってしまいたい」と泣き焦がれ、
本来ならば母親は葬送に同行しないきまりにもかかわらず、女房たちの牛車の後を追い同乗されました。
埋葬の儀式はそれは厳かに、愛宕(地名)でとりおこなわれました。
到着された時の北の方のお気持ちといったら、いったいどのようなものでしたでしょうか。
お着きになる前には
「魂なき亡骸を何度見ても、まだ生きているように思うけれど、ただむなしいだけ。
だから灰になられるのを拝見して、今はもう亡き人なのだと思うことにしましょう。」と
気丈におっしゃっていました。
ですが実際には牛車より落ちそうなほどにお崩れになり、
女房たちは「やはり思ったとおり・・・」と、どうしたものかお困りのご様子でした。
更衣の里に宮中より使者がいらっしゃいます。
帝より<三位>の位階を亡き更衣に贈られる旨の文書を使者が読み上げられるのは悲しいことでございました。
帝は更衣がご存命の間に「女御」とさえ呼ぶことが出来なかったことが名残惜しく残念にお思いでしたので、
せめてもう一階級上の位だけでも・・・と三位の位をお贈りになったのです。
このことについても既に亡き更衣を憎む人々は多くおりました。
けれども物の道理をわきまえた方々は更衣の姿かたちのすばらしかったこと、
気立てが穏やかで感じがよく憎むに憎めなかったことなどを今になって思い出しておりました。
帝のみっともないまでの御待遇ゆえ、つれなく扱い憎んでいたものの、
人柄がすぐれていて人情深い更衣のお心を思い出し、帝付の女房達も亡き人を忍びあっておりました。
古歌<ある時はありのすさびに憎かりき なくてぞ人は恋しかりける
(生きている時はそれだけで憎いけれど、亡くなってしまえば恋しく思う)>というのは、
このような折のことか・・・と思います。
あっけなく月日は流れ、帝は追善供養などにも細かに弔問されます。
時が経つほどにどうしてよいのか分からなくなり、
帝はお后様方に夜のお仕えをおっしゃることも絶えてしまいました。
ただただ毎日を涙にぬれて明かし暮らされるので、
その様子をご覧になる人々さえ涙がちになるような・・・そんな露にくれた秋でございます。
ですが弘徽殿の女御などは
「亡くなった後まで人の気持ちを晴れさせない程の更衣へのご寵愛ですこと」と
なお容赦なくおっしゃっておりました。
帝は一の宮(一の皇子)をご覧になっても、
桐壺の更衣の忘れ形見 若宮に対する恋しさばかりを思い出されます。
親しくされている女房や乳母などを更衣の里へと遣わして若宮のご様子をお尋ねでございました。
台風のような風が吹き始め急に肌寒くなった夕暮れのこと、
帝はいつもよりも想い起こされることも多く、
靫負命婦(ゆげいのみょうぶ)という女官を桐壺の更衣の里へと遣わせました。
当時は本名を他人に知られることは良くないとされていましたので役職名などでお呼びしていたのですが、
この女官は父兄か夫が<靫負(衛門)>という役所の<尉(じょう)>という役職に就いていたため、
このように呼ばれていたのです。
趣のある月が出ている夕方のことでございました。
命婦をお遣わしになったあと、帝は月を眺められます。
このような夕月夜、以前の帝は管弦の催しを開かれることもありました。
「そんな時に亡き更衣は誰よりも優れた音を奏で鳴らし、
とりとめもない言葉をおっしゃるにも格別にすぐれた物腰、顔立ちであった…」と思い耽ってらっしゃいますと、
更衣の面影がつと寄り添っているように感じられました。
ですが生前、暗闇の中で姿は見えずとも実際に触れ会った更衣と比べてみても、
やはり幻は幻、たとえ姿かたちが見えるように思えても劣るのです。
更衣の里に到着した命婦は門を引いて屋敷に踏み入れますが、
あたりにはなんとも寂しい雰囲気が漂っていました。
夫に先立たれた北の方はそもそも一人でお暮らしでしたが、
娘の更衣を大切にお世話していましたので、
何かと屋敷を修繕しては見苦しくない程度にお過ごしでいらっしゃったのです。
ですが今となっては娘を失った悲しみでそれどころではなく、
物思いに沈んでいらっしゃるうちに庭の草は高くなり、近頃の台風でますます荒れてしまった様子。
ただ月影ばかりが幾重にも重なったつる草の間から射し入っています。
南側の正殿に降り立った靫負命婦に、
亡き更衣の母君はすぐには何もおっしゃることができません。
「今まで生きながらえておりますのをそれは嘆いておりますのに、
このように立派な使者様が草の生い茂った荒れた所に露を分け入ってお来しくださるとは、
たいそう恥ずかしゅうございます。」と、
実に堪えきれずにお泣きになります。
これに対し命婦も
「典侍が『お伺いしたところ、母君がひとしおお気の毒で、魂も尽きそうでした』と帝に報告しておりましたが、
物事を思う分別を知らぬ私でさえ、本当に気持ちをこらえることが出来ません。」とおっしゃい、
いくらか気持ちを落ち着かせてから、帝のお言葉をお伝えになります。
※ 典侍:ないしのすけ。天皇に付き、宮中の礼式を担当する内侍司(ないしのつかさ)の次官。
公卿・殿上人の娘が任ぜられた。
「『しばらくは夢かとばかり思い悩まれたが、
だんだんと心が静まるにつれ、悲しみは消えることも無く辛いものです。
いったいどうすればよいものかと問う人も無く、人目に付かぬよう宮中へいらっしゃいませんか。
そちらにいる若宮(桐壺の更衣の皇子)のことも本当に気がかりです。
涙に暮れる中に過ごされるのもいたわしく思いますので、早々においでなさい。』などと、
涙ではっきりおっしゃることも出来ず、むせびかえっていらっしゃいました。
それでも、そんなことでは人々に気弱に見られるだろうと
感情を押し殺して気丈に振舞われるご様子が痛々しく、
最後までお言葉を承らないままに御前を退出してまいりました。」と、帝からのお手紙を渡されました。
「涙で目も見えませんが、このようなもったいないお言葉を光にいたしまして・・・」と
母君は手紙をご覧になります。
時が経てば少しは気持ちも落ち着くだろうかと過ぎてゆく月日を待っていたが、
本当にこらえきれないのがどうしいようもなく辛いことです。
幼い人(桐壺の更衣の皇子)がどのようにしているだろうかと思いを馳せつつ、
私の元で一緒に育てられないことが気がかりでなりません。
今はやはり、私を亡き更衣の形見と思い、宮中においでなさい。・・・などと、細やかに書かれておりました。
「宮城野の露吹きむすぶ風の音に 小萩がもとを思ひこそやれ」
※ 「宮城野(萩の名所)に露をつける風の音を聞くにつれ、小さな萩が案じられる。」という意味。
宮城野は宮中を、小萩は亡き更衣の皇子の例え、露は涙を表す。
宮城野の寂しい風情と共に、
「宮中に吹き渡る秋の風の音を聞くと涙が誘われ、皇子が案じられる」と歌っている。
と歌が添えられていましたが、母君は最後までお読みになることが出来ません。
「長生きがこんなに辛い思いをすることと存じております。
松でさえその長寿を恥じると言われておりますのに、私などなおさらでございます。
そのような思いでおりますので、宮中に出入させていただくことは、まして畏れ多いこと。
もったいないお言葉を度々いただきながら、私自身はやはり簡単には思い立つことが出来ません。
ただ若宮がどのように思っておられるかは存じております。
若宮は宮中に出向くことばかり思い急がれているようですので、
もっともなことと悲しくお見立てしております・・・と、
内々にはこのように思っておりますこと、どうぞ帝にお伝え下さいませ。
私自身は不吉な身の上でございますので、
こうして若宮がここにいらっしゃること自体、はばかり多く、畏れ多い事でございます。」と
命婦にお伝えになりました。
若宮はすでにお休みでした。
「若宮にお会いして、その御様子を詳しく帝にご報告したかったのですが、
帝もお待ちですし、それでは夜も深けてしまいましょう。」と命婦は帰りを急ぎます。
「悲しみゆえ、途方に暮れております。
耐え難い親心の一端だけでも晴らすほどにお話しいたしたく・・・、
どうぞ個人的にごゆっくりおこし下さいませ。
長年喜ばしく晴れがましい折にお立ち寄りくださったのに、
このようなお悔やみのお使いとしてお会いするとは、返す返す無常な私の命でございます。
娘には生まれたときから宮仕えの願いをかけておりました。
今は亡き夫 大納言(国の最高機関である太政官の次官)は臨終の間際まで只々
「娘の宮仕えの宿願を必ず成し遂げるのだ。私が死んだからといって気落ちせず、諦めてはいけない」と
何度も何度も諫めておかれました。
大納言の死後、
私はこれといって後見と思える人もないような宮仕えはかえってしないほうがましだとは思いながらも、
ただ遺言を違えまいとばかりに娘を出仕させました。
身にあまるほどの帝のご寵愛は何事につけてももったいないほどで、
人並みではない恥を隠しつつ、お付き合いをお受けしていたようでございます。
ですがやはり人々の妬みが深くつもり、穏やかでないことも多くございました。
天寿を全うせず横死(寿命を全うせず事故や災害で亡くなること)の様に、
ついにはこのようなことになってしまったのがかえって辛く、
もしもったいないばかりのご寵愛がなかったら・・・などと思われるのです。
これも娘を思うあまりに分別を失ってしまった親心ゆえでございます。」と、
母君はは言い終えることも出来ず、むせびかえっていらっしゃるうちに夜は更けてしまいました。
「帝もご同様でございます。
『自分の思いながら、こうもひたむきに傍目も振らずに愛したのも、長くは続かないことだったからか。
今となっては辛い人との宿縁であった。
私はこれまで断じてわずかたりとも人々の心をゆがめるような行いはするまいと思ってきた。
だが、ただこの人のためには本来受けるべきではない人々の恨みを多く受けた。
その上一人この世に残されて、心を晴らすすべもないままに、
あげくは体裁も悪く見苦しいこの有様よ。
このようなことになろうとはいったいどのような宿縁が前世にあったものやら知りたいものだ。』 と、
何度も何度もおっしゃり、涙を流されるばかり。」
・・・などと語り尽きることはありません。
命婦は泣く泣く
「夜もたいそうふけってしまいました。今宵のうちに帝にご報告を差し上げましょう。」と急ぎ帰参されました。
月は沈もうとし、空は清く澄みわたっています。
風もずいぶんと涼しくなって、
草むらの虫の声々に心を誘われた様子で命婦は何とも里の庭を立ち離れがたいことでございました。
「鈴虫の声のかぎりを尽くしても 長き夜あかずふる涙かな」
(「松虫が声のかぎりを尽くして鳴いても長い夜は明けず、涙を誘われる」という意味。
「母君が涙のかぎり泣き尽くしても悲しみは晴れることがなく、涙をさそわれる」と歌っている。
あるいは命婦自身が
「どんなに泣いたたところで悲しみは晴れず、涙がとどまることがない」と歌っているのか?)
と歌われ、どうしてもお車に乗ることが出来ません。
これに対し母君は
「いとどしく虫の音しげき浅茅生に露おきそふる雲の上人」
(「そうでなくても虫の音が絶え間ない荒れ屋ですのに、
さらに露を置き加えられる宮中の人よ」という意味。露は涙を表している。
「そうでなくても涙に暮らしているのに、
命婦がいらっしゃったことで新たに色々と思い出され、さらに涙した」と言っている。)
「新たな涙にお恨み言さえ申し上げてしまいそうです。」と命婦に伝えさせます。
素晴らしい贈り物などをするような時でもございませんので、
母君は亡き更衣のお形見に・・・と、
このようなこともあろうかと残してあった装束一揃いと髪を結うお道具などをお預けになりました。
更衣に使えていた若い女房たちは、悲しいことはもちろんなのですが、
宮中での朝夕の宮仕えが習慣になっておりましたので、なんとも物足りない日々をお過ごしでした。
帝のご様子などを思い出しては母君に申し上げ、宮中に早く出向かれることをお勧めになります。
けれども、このように忌わしき身で若宮をお連れするのも世の見聞もずいぶん悪いことでしょう、
だからといって若宮一人を行かせ、
しばらくでもお会いできなくなるのはたいそう気がかりに思う・・・とおっしゃり、
あっさりと宮中にお出向きになることはありませんでした。
宮中に戻った靫負命婦ですが、帝がまだお休みになれずにいることを気の毒にご覧になります。
帝は御前にある中庭の植込みがそれはすばらしい盛りなのをご覧になっているようで、
忍びやかに、奥ゆかしい女房四、五人をお側におかれ、お話しをさせていらっしゃいました。
近頃は明けても暮れてもご覧になっている長恨歌の絵・・・、
唐の国の白居易が歌った玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋の物語、
これはその物語を亭子院(ていじのいん 宇多法皇)が絵に描かせ、
伊勢や紀貫之の歌人が歌をつけたものですが、
近頃の帝は、和歌にしても漢詩にしても、ただただそのような悲恋物語のことばかりを話題になさいます。
帝は命婦に事細かに様子をお聞きになります。
命婦は母君の哀れなご様子を忍びやかにご報告されました。
母君からのお返事をご覧になれば、
まこと恐れ多く、身の置き所もございません。
このようなお言葉をいただくにつけても、悲しみに暮れ心乱れております。
あらき風ふせぎしかげの枯れしより小萩がうへぞ静心なき
(宮中に吹く荒い風(人々の妬みや心無い行い)を一身に受け、
若宮に風が吹き付けることの無いように防いでいた桐壺の更衣が亡くなった今、
若宮の身の上を思うと心配でなりません・・・と歌っている。
帝のおくった歌「宮城野の〜」に対する返歌。
とらえ方によっては父である帝が若宮を守れないと言っているようにも聞こえるので失礼にあたる。)
などと無作法なところのあるものでしたが、
母君もまだ心が落ち着かれていない時であろうと大目にご覧になるのでした。
決して気弱には見られまいと帝はこみ上げる思いを沈めようとなさいますが、
もはや堪える事ができません。
はじめて桐壺の更衣とお会いになったときのことさえ色々とかき集めるように思い出され、
次には自然と様々なことが思い起こされるのです。
更衣がいたあの頃は、ほんのちょっとした間さえ気を揉み待ち遠しかったものを、
このように一人残されても月日は流れていくものだ・・・と嘆かわしく思われるのでした。
「故大納言の遺言をあやまることなく宮仕えの本意をしっかりと成し遂げたお礼にと、
『宮仕えさせた甲斐があった』と思えるようにしてさしあげたい・・・と思い続けていたが、
今となっては言ってみても仕方ないことだ・・・。」とふとおっしゃって、
母君をそれは哀れに思いやります。
「こんなことになってしまったが、自然と若宮が成長すれば、しかるべき折もあるだろう。
母君が長生きされるようにとこそ祈ろうではないか。」などとおっしゃるのでした。
帝は母君からの贈り物をご覧になります。
そして長恨歌で幻術師が亡き楊貴妃の魂を在り処を探し出す件を思い出し、
これが亡き更衣の魂の住処を尋ね出した証拠のかんざしであったなら・・・と思われるのですが、
栓の無いことでこざいました。
たづねゆくまぼろしもがなつてにても魂のありかをそこと知るべく
(更衣の魂を訪ねてくれる幻術師がいてくれたなら・・・
人づてにでも魂がどこにあるかを知ることが出来るのに・・・。)
ご覧になっている絵に描かれた楊貴妃の容貌は、
素晴らしい絵師に描かれたものといえども、
筆で描かれている限りはやはり華やかな魅力にかけるものです。
唐の都 太液池に咲く蓮の花のような楊貴妃の顔立ち、未央柳のような美しい眉。
なるほどそれらに例えられるほどの楊貴妃が、
唐風の装束に身を包んだ姿には整った端麗な魅力があります。
ですが更衣の親しみのわくかわいらしさを思い出すと、
それは花や鳥の色にも音にもなぞらえることなど出来ないのです。
天にあっては比翼の鳥(つがいで一つの羽を共有する伝説の鳥)に、
地にあっては連理の枝(幹は別だが枝を連ねている二つの木)となろう・・・と
まさに長恨歌で歌われたように、朝に夕に口癖のように契っていたものを、
かなわなかった命が尽きることなく恨めしいことでございました。
風の音、虫の音を聞くにつけても何とも悲しく思われるばかりというのに、
弘徽殿の女御といえば、久しく帝のお部屋に参上せず、
月が素晴らしいからといって夜が更けるまで楽器をかき鳴らし管弦の遊びをなさっています。
帝はなんと興ざめなことか・・・とお聞きでした。
近頃の帝のそぶりを気にかけている官人や女房などは苦々しく聞いておられます。
弘徽殿の女御は自分の意思を強引に押し通すような刺々しいところのある方でしたから、
帝のお気持ちを無視してお振るまいになることなど、大したことではございませんでした。
月も沈みました。
「雲のうへも涙にくるる秋の月 いかですむらん浅茅生の宿」
(雲の上にある宮中からでも秋の月は涙で曇っています。
草深き里ではなおさらのこと、心が澄み渡ることも無いでしょう。
いったいどのようにお過ごしなのか・・・。「すむ」は「心が澄む」、「住む」の両方の意味?)
帝は里を思いやりつつ、灯火をかきたて、油が尽き果てるまで起きていらっしゃいました。
宮中の警備を担当する右近の司の点呼の声が聞こえてきます。
午前一時をまわったのでしょう。
人目を気にされ寝所にお入りになりましたが、まどろむことさえかないません。
朝になって寝床を離れようとしても、
「桐壺の更衣がいた頃は、明るくなるのにも気付かないで一緒にいたものを・・・」と思い出され、
なお朝の政務を怠っていらっしゃるようでした。
物も召し上がらず、簡単な軽食に少し箸をつけるだけで、
きちんと用意されたお食事などは全く気が進まないご様子。
給仕に関わる全ての者がいたわしいご様子をなげいておりました。
帝のお側に仕える者たちは、男女の別なく全ての人が「まったくどうしようもないことですね」と言い合い
溜息をついております。
「こうなる宿縁をお持ちだったのでしょう。
大勢の人の非難や恨みを気にかけず、桐壺の更衣のことになれば道理をも失くされる。
そして今、更衣がお亡くなりの後も、これまたこのように政治のことをお見捨てになるようになられるのは、
本当に困ったことでございますね。」と、
またもや他の国の例までもちだして、こそこそと嘆くのでした。
月日は流れ、若宮は参内なさいました。
ますます清らかに美しく成長され、まるでこの世のものではないかのよう。
たいそう不吉なまでに思われました。
明くる年の春、帝は東宮(皇太子)に一の宮をお定めになりました。
その際にもそれはもう一の宮をさしおいてでも二の宮である若君を東宮に立てたいとお考えになりました。
けれども若宮の御後見をする人もなく、また世間が承知することでもありません。
ですのでそのような思いはなまじ危うく思いはばかられ、気配にも出されませんでした。
世の人々も
「たいそう心配したけれど、やはりいくら二の宮がかわいいからといっても限界があったんだなぁ」と噂し、
一の宮の母 弘徽殿女御もやっとご安心されたのです。
若宮の祖母 北の方は慰むすべもなく思い沈み、
娘のいるあの世に訪ねて行きたいと願っていらっしゃったからでしょうか・・・
ついにお亡くなりになられました。
帝はさらに悲しく思われること限りありません。
若宮は6歳になる年でした。
母君がお亡くなりの時は幼さゆえ悲しみを理解できないご様子でしたが、
今回は恋しく思い、お泣きになります。
長年の間若宮と馴れ親しんでいらっしゃった北の方は、
もうお世話をして差し上げられない悲しみを返す返すおっしゃっていたのでした。
若宮は今はもう、内裏にのみお過ごしでいらっしゃいます。
七歳になられましたので、帝は漢書を初めて習わせる 読書始め(ふみはじめ)などをおさせになります。
若宮はこの世にまたとないほどに聡く賢くいらっしゃいます。
帝はあまりのご様子に、恐ろしくさえご覧になりました。
「今となっては誰も若宮を憎むことはなかろう。母君を亡くした子なのだからかわいがってやりなさい。」と
帝は弘徽殿などにも若宮と一緒にお渡りになり、
ふつう殿方は入れない御簾の中にまで若宮を引き入れられます。
恐ろしい武士や仇、敵とて若宮を見れば微笑まずにはいられないほどの若宮ですので、
さすがに弘徽殿女御といえども若宮を遠ざけることはできないのでした。
弘徽殿女御には姫君がお二人いらっしゃいましたが、若宮と比べるなどできないことでございました。
他の方々も若宮からはお隠れにならず、さらに立派ですばらしくいらっしゃる若宮ですから、
それは趣がある上に気兼ねなく遊べるお相手と、誰もかれもがお思いでした。
本格的な学問はいうまでもなく、琴笛の習いにも若宮は宮中をどよめかせます。
あれもすばらしい、これもすばらしい・・・と全て言い続ければ、
あまりにもことごとしく辛いほどのご様子でございます。
(つ づ く)
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